■ 民美講師によるコラム - 033
2011/05

「絵は教えられるのか」 佐藤勤

 美術を教えることはできないとはよく言われる、古くから古代中国で「気韻生動」ということが語られ、それは教わって獲得できるものではないという。今でも日本人にはその影響が残っていて、絵は感じるものであり、描きながら体で覚えるものとされている。それはそうなのだがしかし私は果してそれだけのことなのだろうかと常々思っている。
 犬や猫がおいしそうに描かれた魚の絵に関心を示すことはない、美術は人間にのみ理解され感動し共有されるものだろう。だから古今東西の美術文化は大切に守り伝えられてきたと考える。いつの時代も観る者に感銘を与え、創作者に勇気をふるいおこさせてきた。美術は私たち人間について「人間とは何か」を問いかける窓口のようなものといえるだろう。
 シャイクスピアの悲劇「リア王」の中で、気のふれた王が「赤子は泣きながら生まれてくる、阿呆共の舞台にひきだされたのが悲しいからだ」という場面がある、このセリフは様々なことを深く考えさせられる。現代の我々にとっても人間社会についての鋭い逆説的な問題提起である、500年前のシェイクスピアは今日でも私たちに「人間とは何か」を問いかけ続けていると思う。
 私は答えを教えることが美術を教えることとは思っていないが、美術を教えることはできぬとは思っていない。古今東西の美術の歴史や理念・技法を学ぶことは、とりもなおさず人間社会を見つめ、問いかけ続ける方策を考えることであり、絵を描くことは我々が「今」を問い続けている姿を示すことだろうと考えている、その為の語りかけこそが「美術を教えること」だと思い、語りかけと問いかけを捨てるべきものとは思っていない、美術は豊かなコミュニケーションの上に成り立つものだからである。

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ビエンナーレ大賞受賞・牛久市蔵