創作のつぼ 1

 デッサンとは何か 画家:箕田源二郎

なくなりつつある境界……デッサンとタブロー、そして水墨画

デッサンとは単色で描かれた絵のことです。つまり、素描です。単色といっても、すこし色をつけたり、白、黒、赤のチョークを使って、色のついた紙にかいたり、さまざまです。
単色でかかれた絵といえば、墨一色でかかれた日本画,中国画などもそうですが、この場合はデッサンとしてくくることには無理があるようです。
なぜなら、水墨画はそれ自体が完成作であり、絵画制作の途中で生まれる構想のスケッチ、細部の習作など、たとえそれらが美しさと高い芸術性をもつとしても、それら(デッサン)は、一応、絵画(タブロー)とは区別され、そういう考え方が、西欧ではずっと行われてきたのです。

しかし、近頃は、油彩、水彩などと並んで、デッサン(素描)もひとつの表現形式としてとらえ、長年にわたって素描表現にとりくんで、成果をあげている画家たちもいます。この場合は、かなり水墨画の場合と似たところがあるのではないでしょうか。もうそんな区別なんてなくてもいい、そんな時代になっているのかもしれません。

とにかく、どこまでが素描で、どこまでが絵画なのか、線引きはなかなかむずかしいようです。

石片が語るもの……長い長い技術の蓄積
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スペイン・アルタミラの洞窟壁画
(紀売前15000-10000年)

今から2万年も前の旧石器時代の線刻石が見つかっています。ファン・ドブームという澗窟から発見されたもので、7センチメートルほどのちいさな石片、表面には洞窟の絵に登場する動物たちがたくさん刻まれています。

動物のかたちをかく練習をしたものでしょうか、びっしりとかきこまれています。なかには、少しぎこちないかたちのそばに、もっといきいきとしたかたちが刻まれているものもあります。ふっと先生が初歩の人に手をとって教えている、そんなことも考えてしまう石片でした。たぷん、練習のためのものだったのでしょう。もちろん、証拠はありません。ただ、私たちを驚嘆させる旧石器時代の洞窟画も、それは“万の単位”で数えるような長い長い間の技術の積み重ねがあっての上のことだったということは確かです。オーリニャック期の洞窟の、まことに下手くそな指先でかいた絵などのことを考えると、ラスコーやアルタミラの洞窟面のすぐれた絵も、こうした本当に長い時間をかけた技術の積み重ねがあったからだと改めて思います。

もちろん、紙などない時代のこと、手頃な石片の表面に線刻を繰り返してかたちの表し方を勉強していた、線刻石はそのことを示してくれていると思います。

かなり、昔のことですが、エジプトのサッカーラで、すばらしい薄肉彫りを鑑賞していたときのことです。その美しさに熱中していたとき、石の表面にわずかに残っていた線描の痕跡に気づきました。この仕事をした職人さんも、線描についてみっちり仕込まれていたのだな、と、この作品の美しさの源を見たようで、なるほどと得心させられたものです。

そのころ、デッサンなどという言葉はなかったでしょうけれど、線や描くということには、ずいぶんな長い歴史がつまっているわけなのです。

中世ゴシック期の素描

イタリア14世紀の画家チェンニノ・チェンニーニが『絵画術の書』 という本を書き残しています。

これは、中世イタリアの工房で、どんなことを親方が弟子に教えていたかがわかる興味深い本です。ここでくわしくはふれませんが、この本のなかでチェンニーニが、弟子たちが身につけなければならない二つの技術について書いています。第一が「デセーニョ (デッサン・素描)」、二つ目が彩色。彩色のところでは、顔料の種類や特徴、彩色の大切な道具としての筆の作り方などが、詳しく述べられています。デセーニョの勉強の進め方として、すぐれた師匠の作品の模写、それにもまして大切なこととしての自然物の写生、用具については銀の尖筆、尖筆の使用に習熟したら、先を尖らせたペン、支持体は羊皮紙、バンバーナ紙……ヨーロッパで植物繊維で紙をすくようになるのは、13世紀のことで、チェンニーニの時代はだんだん紙も出まわってきていました。しかし旧来の羊皮もあわせて使われていたようです。

中国で紙がすかれたのは2世紀の頃、水墨画の発達もこの紙の発明と深くかかわったことでしょう。

工房で修行したあとば、一人だちするというごとになるのでしょうか。注文主から注文をもらうためには、見本(ひながた)が要るでしょうし、仕事をすすめるためには下絵を示す必要もあるでしょう。

ここではどうしてもデセーニョ (線がき)という手わざが必要になります。

そのころは、素描の作品は、高級な顔料を使って美しく仕上げられた祭壇画や教会の空間をかざるフレスコ画のような完成作に対して、ずっと価値の低いものと考えられていたので、あまり大切にはされなかったようです。この段階でのデセーニョ、つまリデッサンは、一人前に絵の仲間入りはできなかったたのです。

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ピサネルロ「エステ家の姫君の肖像」 
(1441年)

15世紀の前半の画家でメダル制作者でもあったピサネルロのことを、ふと思い出しました。この時代の画家にはめずらしく、ピサネルロはたくさんの素描作品を残しています。

ピサネルロのデッサン(素描)は、大作のための下絵だったのかも知れませんが、彼はどうも白分の要求で、自分の興味で描いていると、どうしても思えるのです。面白がって対象を見つめ、細い線描でこれでもかこれでもかと、かたちを写しとっています。

自分の対象への興味が先にあって描いている、私にはどうしてもそう見えるのです。

彼の数少ないフレスコやタブローに残された素描と同じ姿態の動物たちが見られますが、その前後関係はともかく、彼の素描の魅力は、貪欲にものを見つめる、その目にあり、その結果が完結した一枚の作品、単色の独自な絵画として自己主張している、そう思えるのです。
ピサネルロは、まだ後期ゴシックと呼ばれている時代の北イタリアの画家ですが、それはやがてルネッサンスの時代を迎える前夜でもありました。

新しい評価を準備した二人の巨匠

15世紀末、イタリア・ルネッサンスが高い峯を築いていた時代は素描の芸術創造のなかで果たす役割への評価が新しい段階へと進んでいった時代でもありました。

つまり、素描はタブローやフレスコ画の準備段階としてつくられるものではあっても、けっして低いレペルのものととらえるべきではないという認識が、画家や愛好者の間に芽生えていっていたのです。その段階を用意した人として、盛期ルネッサンスの二人の巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロをとりあげて考えてみることにします。

この二人の巨匠はしばしば対立したりして、決して仲良しでも、尊敬しあう仲でもなかったようです。年齢は、ダヴィンチの方が20歳ほと年かさで、いうなれば先輩です。性格的にもずいぶんとちがった二人でしたが、二人には一-つの共通なところがあったと研究者はいいます。二人はともに「芸術家として、まれにみる貪欲な探求者」だったというのです。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ
「自画像」赤チョーク
(1512年ごろ)

ダ・ヴィンチはきわめて知的な探求者でした。彼の残したたくさんの画稿、スケッチなどなど、その量はまことに膨大です。
それに引き比べ、彼の残した完成作は決して多くはありません。

未完に終わったフィレンツェのパラッツオ・ヴェッキオを飾る 「アンギアーリの戦い」も、準備素描と全体の構図の模写は残っているけれど、ついに完成をみることはなかったのです。

タブローが未完のまま残された「東方三博士の礼拝」も、はじめの構想素描、部分的な習作、第二の構想素描といったように、たくさんの素描が残されていて、ダ・ヴィンチの造形的な思索のすがた、作者の魂の推移が、いろいろの変更をともないながらみてとれます。「もう日限もきたのだから、そろそろまとめ恋くては……」――ダ・ヴィンチにはそれがどうしても許せなかったのでしょう。

ダ・ヴインチの残した手稿、スケッチ、彼の関心は多岐にわたり、自然について、美と比例について、などなど森羅万象を思索の対象とし、その思索はデセーニョという行為を通じて行われているのです。

ダ・ヴィンチのたくさんの素描は、デセーニョという行為が持つ意味を、大きく押し広げてくれたといっていいでしょう。

先に書いたフィレンツェのパラッツオ・ヴェッキオの壁面装飾に、競作者として選ばれたミケランジェロは、「カッシーナの戦い」をテーマに選びました。

ミケランジェロの方も、原寸大の下絵まで仕上げたのですが、その年(1505年)、ローマに旅立ってしまって、その仕事は未完のまま終わりました。

ミケランジェロの原寸大の下絵素描は、フィレンツェの市民たちに公開され、画家たちはわれ先にと集まって、模写に取り組んだそうです。フィレンツェの市民たちは、こうして公開される巨匠たちの素描に、大きい関心を抱くようになっていました。

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ミケランジェロ「原罪」(部分)
システィーナ礼拝堂天井画 フレスコ画
(1508-1512年)

ミケランジェロのもとには、フィレンツェでもローマでも、次々と注文が殺到していました。ユリウスⅡ世の廟墓、システィーナの礼拝堂の天井画、メディチ家の廟墓、システィーナ礼拝堂の「最後の審判」など、ミケランジェロは実にたくさんの仕事を引き受け、石を刻み、チョークを持ち、フレスコの画面に腕をふるいました。

おそらく、システィーナの礼拝堂で、あの大壁画をまのあたりにされた方なら、何よりその圧倒的な量に、これほどの仕事が一-人でやりとげられるのかという驚きに、肝をぬかれるにちがいありません。そして、彼が残した数多くの素描、仕上げにいたらないまま残された彫刻、それは決して未完などというべきでない精神の具現として、今でも私たちに追ってきます。

単色の絵を芸術としてとらえ、木版やエングレービングなとの版表現を高い芸術性をもつものとして高めた、ドイツ・ ルネッサンスの巨匠アルブレヒトデューラー、さらにはやはり単色の版の仕事を自らの芸術表現の大切な一部としてとらえたレンブラント、フランシス・ゴヤなど、素描の系列につながる大切な大画家についてもふれるべきですが、ここでは割愛します。

素描は決して、単なる板絵やフレスコ、カンバス画などの準備のための仕事ではないのです。芸術性において、その美的価値において、いささかも劣るものではないのです。

それはこうした素描の歴史的な歩みのなかで、認識され、多くの人々の理解を得るにいたったものなのです。

おそらく素描が芸術として自立していったその背景には、画家個人の自由、解放という事情があるでしょうし、それが画家たちの創造的な意欲をかきたてていったにちがいないでしょう。

デッサンという言葉に刻まれた歴史の重みを

日本でデッサンという言葉が広く使われるようになったのがいつのことか。

はっきりしたことはわかりませんが、たぶん明治の末ごろではないかと思われます。デッサンという言葉は、入門期の木炭や鉛筆などによる勉強過程と受け取られているふしもあるようです。

デッサンはデッサンとして、とても大切な勉強にはちがいありません。しかし、デッサンという言葉には、今見てきたような歴史が刻まれているのです。

そのことを考える糸口になってくれれば、うれしいと思っています。

みた・げんじろう (1918-2000) 東京生まれ。
1964年、童画グループ「車」結成に参加。
日本美術会代表。いわさきちひろ絵本美術館理事長
参考図(箕田源二郎の作品)
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箕田源二郎「内灘試射場」    油彩(1954年)